2014/11/04

11月4日 ローマ

11月4日(火曜日)


今日の行動経路を中世ローマの地図に記入してみた

今日は曇りの天気予報。明日以降は寒冷前線の接近で大荒れの天気になるかもしれない。


天気予報 (今日は曇り、明日以降 雨…)


気象衛星写真では寒冷前線の雲が接近中


朝起きて外を見ると快晴だが、ベランダや下の道路は雨で濡れている。夜中に降ったのだろう。天気予報は、晴れ時々曇り、時々雨のような「どうとでも受け取れる」天気予報だ。8時30分ごろ、ホテルを出発。近くのテルミニ駅から地下鉄B線に乗り、ピラミデ駅へ。

■ テルミニ 8:40 → ピラミデ 8:49 (地下鉄 B線)

駅舎から外に出ると、目の前の広場に巨大なサン・パオロ門。古代の都市ローマの外港だったオスティアに続くオスティエンセ街道の通過地点の門だ。現在でも、オスティア行きの郊外電車はこの門の前が起点駅だ。駅前の広場でバスを待っていると、急に空が曇ってきて、どしゃ降りの雨が降り出した。5分ほどでやんだが、アフリカから吹いてくる温かい空気に、明日ぐらいにやって来る寒冷前線の冷たい空気の前触れがぶつかって、スコールのような雨が降ったのだろう。


ピラミッドとサン・パオロ門(オスティエンセ門)

■ ピラミデ 9:14 → カタコンベ・サン・セバスティアーノ 9:28 (バス 118系統)

事前に調べておいた118系統バスに乗り、アッピア街道公園に向かう。バスは、一旦カラカラ浴場の付近まで戻ってから、アウレリアヌス城壁に沿って走り、サン・セバスティアーノ門からアッピア街道を南下するコースを走る。終点まで乗るのではなく、途中のサン・セバスティアーノのカタコンベの前で下車。観光客らしきほかの乗客もここで降りて、カタコンベ(キリスト教の地下墓地)を見に行くようだ。

私はキリスト教徒ではないので、アッピア街道を歩くのが目的だ。カタコンベの前から、アッピア街道は車が走るのは適切でないような、古代ローマ時代の敷石がそのまま残っている道になる。バスや一般の自動車は、並行して走る迂回路を行くようだ。

それでも、街道沿いの別荘などに住む人だろうか、無理やり車を徐行させて走る人もいる。800mほど行くと、マクセンティウスの競技場が見えてくる。広大な芝生広場に、レンガ造りのような塔が建っているのが見える。入場口には10時開門と書かれている。まだ30分前なので、今は通り過ぎて帰りがけに見ることにする。

バスを降りてから1.2㎞の地点に、巨大な円筒型のチェチーラ・メテッラ廟が見えてくる。ここも帰りがけにまとめて見学しよう…。道を挟んだ側には、教会の廃墟がある。サン・ニコラ教会というらしく、14世紀に建てられたものらしい。このすぐ先に、アッピア街道の起点から3マイル地点のマイルストーンがあるそうだが、見つけられなかった。

バスを降りたところから1.5㎞地点に、売店兼カフェがあり、ここにも別のバス路線のバス停がある。ここから先は、店などもなく、車もほとんど走らない道になる。古代ローマ時代の道路がそのまま保存されているので、馬車がすれ違える幅5m程度の本道と、両側に幅1m程度の歩道、歩道には日陰を作るための並木が植えられている。ローマ付近には、歩道の外側に貴族などの墓がずらっと並んでいる。


アッピア街道(幅5m程度の本道と、両側に歩道という構成)


ローマ付近は、沿道に有力者の墓が並んでいた

水道橋と同じく、墓も建築資材として略奪されまくり、原形をとどめているものは少ない。運よくある程度残存している墓もあり、死者の家族が仲良く並ぶ姿を彫ったレリーフが残っていたりする。お年寄りの団体観光客1組、イタリア人カップル、イタリア人の写真家、近所のジョギングする人、ドイツ人の女性2人連れとすれ違うが、よほど古代遺跡に興味がないとツアー客にはつらい観光地なのかもしれない。4㎞ほど行ったところで、車がひっきりなしに走る道路との交差点。ここで引き返すことにする。


チェチーラ・メテッラ廟

帰りがけに、チェチーラ・メテッラ廟に入場。入場券はカラカラ浴場とヴィッラ・クインティリとの共通券だ(8ユーロ)。元老院議員で、執政官経験者の娘の墓にしては、超巨大だと思う。すぐ横に、マクセンティウスの息子で早世したロムルスの墓があったはずだが、そちらは全く残っていない。円筒形の霊廟の中は、単なる筒状の空間で青空が見えるだけだ。天井が抜け落ちたのか、それとも、こういう形のモニュメントなのか…


マクセンティウス競技場

すぐ隣にあるマクセンティウスの競技場跡にも入場する。こちらは無料だ。アッピア街道に対しては斜め向きだが、だいたい東西方向になるように造られている。逸話としては、チェチーラ・メテッラ廟が既に存在していたため、それを回避するために街道に対して斜め向きに建設せざるを得なかったそうだ。競技場完成直後に、マクセンティウス帝がテトラルキア内の権力闘争に敗れて死亡したため、ここで(皇帝主催の)戦車競走は一度も開かれることは無かったそうだ。

ローマ市内にあるキルクス・マクシムスは単なる空き地だが、マクセンティウス競技場は競技場の中央にある仕切り壁もよく残っている。

バスを降りたところを通り過ぎて、サン・セバスティアーノ門方向に向かう。しばらく行くと、2マイルのマイルストーンの残骸らしき角柱が道路の横にひっそりと建っている。バス停から戻ること1㎞、ドミネ・クオ・バディス教会がある。ラテン語で、「どちらへ行くのか?」という妙な名前を付けたものだ。時はネロ帝の頃、使徒ペテロがネロ帝の迫害から逃れローマ郊外のこの教会に滞在していた時、夢枕に主が現れたそうである。そこで、「主よどちらへ行かれます?」と聞いたところ、主は「ローマに戻り信徒を助ける」と答えたそうである。そこで、ペテロもローマに戻る決断をしたという逸話から教会名が付けられたそうだ。


アッピア街道 1マイル目のマイルストーン

更にローマの方に向けて歩く。歩道すら無い狭い道を車が猛スピードで走っている。よく歩行者が跳ね飛ばされないものだと思う。鉄道の高架橋をくぐるとサン・セバスティアーノ門が見えてくる(バスを降りたカタコンベ前からは2㎞ほどの地点)。その100m位手前に、1マイルを示す円柱形のマイルストーンが、道路沿いの壁に半分埋められて残っている。表面に書かれている碑文は、半分から下は読み取ることができる。

IMP NERVA CAESAR AVGVSTVS PONTIFEX MAXIMVS TRIBVNICIA POTESTATE COS III PATER PATRIAE REFECIT

「皇帝ネルウァ・カエサル・アウグストゥス 最高神祇官 護民官 執政官3回目 国家の父 が再建築する」

最後のREFECITが、英語では「rebuild」だろうから、ネルウァ帝の時代に建て替えたものなのだろうか。一昨日、フォルム・ロマヌムで見た起点のマイルストーン(アウレウム)は基礎の部分を残しているだけで、分がかかれているべき部分が無かったので、こちらは貴重なものなのだろう。


サン・セバスティアーノ門

すぐ目の前に、アウレリアヌス城壁に開けられたサン・セバスティアーノ門がある。「壁博物館」と旗が出ているので、中を見せてくれるのだろう。城門の中に入り、ドアの呼び鈴を押して入れてもらう。ここも入場料無料で、城壁の構築方法などを解説した展示などがされている。市外側から見た城壁は、高さ10mほどの何の模様もないレンガ壁だが、市内側はアーチ構造が連続した壁の補強が見えるようになっている。


高さ約10mのアウレリアヌス城壁

3世紀末の軍人皇帝アウレリアヌスが、蛮族の侵入に備えるために突貫工事で造ったものだ。そもそもゲルマニアとの境界線(リメス・ゲルマニクス)で防御するという、カエサルやアウグストゥスが作り上げた防衛補法が崩壊した時点で、ローマ帝国の弱体化は覆い隠せない状況になっていて、この城壁の守りを固めるための兵士の数すら事欠いていたそうだ。それでも、これだけ巨大な壁を造れたというのは、崩壊寸前の国家にしてはすごいことだと思う。


カラカラ浴場通りに開けられた現代の大きな門と、右側の小さなアルデアティーナ門

サン・セバスティアーノ門から2㎞ほど離れたピラミデ駅に向けて、城壁に沿って歩く。国鉄(現 トレニタリア)のオスティエンセ駅の近くまで来たところで、たくさんの人でにぎわっているカフェテリアがある。ここで昼食。ショーケースに並んだおかずの中から、ピラフのようなものと、魚を蒸したもの選んで食べる。本来は、どちらか1品という設定なので、両方共が山盛りに盛り付けられてきたので驚いた。11.3ユーロ。


昼食

ピラミデ駅から地下鉄に乗る。駅の改札口に7日券の切符を通しても、エラーになる。ほかの乗客の中にも、どの解説気を試してもエラーになる人がいる一方、ちゃんと通過できる人もいるようだ。こうなったら、強行突破しかないので、たまたま改札のドアが開いた人の後ろにくっついてはいるが、ドアに引っかかってしまい服の袖が破けてしまう。おのれ、地下鉄会社め…

他の駅でも、改札機がエラーになるのはよく見かけて、おそらく改札機の時刻設定がおかしいのだろう。それで、有効期限判定ができていないのかもしれない。新しい切符には有効期限がまだ書き込まれていないので、そういうタイプの切符の人はすんなり通れるのだろう。ただ、24時間券など、期限が書き込まれて次回以降も使うものは、むちゃくちゃな期限を書き込まれてしまった場合、どうなるんだろうか… 。 改札には係員もおらず、どこに苦情を言ってよいのかもわからない。

■ ピラミデ → テルミニ (乗り換え) → フラミニーノ 14:28 (地下鉄 B線、A 線)

ポポロ広場のところにある駅で降りる。駅名は、この場所からリミニウム(アドリア海沿いにある 現 リミニの街)まで続くフラミニア街道にちなんでいる。駅の出口を出ると、目の前にフラミニア門(ポポロ門)がある。中世に建て替えられたものなので、まるで凱旋門のような装飾品だ。

ここでトラムに乗り換えて、さらに北へ。

■ フラミニア 14:35 → ピントゥリッチオ 14:47 (トラム 2系統)

テヴェレ川にぶつかる終着駅まで乗って下車。目の前には、川を基準とするならば、都市国家ローマの最北端地点であったミルウィウス橋がある。


ミルウィウス橋(左側がリミニウム方向)

テトラルキア時代の西の皇帝マクセンティウスが、ブリタンニアのエボラクム(現 ヨーク)で皇帝となることを宣言したコンスタンティヌス1世を迎え撃った、ミルウィウス橋の戦い(312年)が起こった舞台だ。

市内に大量の公共建築を造る等、ローマ文明を守ろうとした最後の皇帝マクセンティウスが、キリスト教の守護者のコンスタンティヌスに敗れ、ローマがキリスト教国家に変容してしまう契機になった戦争だ。そもそも、アウレリアヌス城壁を閉じて籠城戦に持ち込めば、マクセンティウスが勝利したのは間違いないと言われているが、今も昔もチキンレースに乗ってしまう人は居るものだ。ミルウィウス橋を出て打って出てはみたものの、相手に圧倒されて逃げ帰るときに、すべての兵士が1本しかない橋に殺到して圧死したという、何とも情けない戦の結果だ。

橋で圧死といえば、10年位前に兵庫県の明石の歩道橋でも、花火大会に殺到した人が圧死したという事故があった。人間は、いつになっても学ばないものだ。

■ マンツィーニ広場 → フラミニーノ 15:30 (トラム 2系統)


夕方の行動経路を古代ローマの地図に書き込んでみた


ポポロ広場のラムセス2世のオベリスク

再びポポロ広場に戻って来る。ポポロ門を通り抜け、広場の中心にはヘリオポリスから運ばれてきたラムセス2世の褐色のオベリスクが鎮座している。広場からまっすぐ南へ、5階建てくらいの建物に挟まれた狭い道を進んでゆくと、建物が取り除かれた空間があり、中央にアウグストゥス廟の残骸が姿を現す。建設当時は、表面は円錐形に土で覆われ、糸杉が植えられていたそうだ。日本の円墳に似ていなくもない。フェンス越しに撮影しようと、礎石に足をかけたところ目の前に巨大な黒い犬が… 番犬だろうか。吠えないが、中に侵入しようとするものを拒む鋭い目だ。アウグストゥス廟の中に納められていたユリウス・フラヴィウス朝の皇帝たちの遺灰の壺は、すでに失われて長い年月が経ち、中はおそらくがらんどうなのだろう。


アウグストゥス廟

アウグストゥス廟とテヴェレ川の間には、アラ・パキスの展示館があるが、時間が無いので今日はパスしてさらに南へ。

イタリア下院議場のモンテチトーリオ宮殿のところまでくる。宮殿の前には、エジプトのヘリオポリスから運ばれてきたプサムティク2世のオベリスクが立っている。議場の正面入り口の真南に立てられていて、議場との間に金色のプレートが点々と埋め込まれている。正午の太陽に照らされた時の影の先端で、太陰暦の日付がわかるという「日時計」の機能もあるらしい。よく見ると、日付ではなく、黄道12星座のマークが描かれているだけだが、天文マニアなら理解できるのだろう。


マルクス・アウレリウス記念柱

すぐ東側にマルクス・アウレリウスの記念柱が建っている広場がある。皇帝たちのフォルムにあるトラヤヌスの記念柱に比べると、かなり手抜きした感じの浮彫がされている。2世紀中ごろのドナウ川向うの蛮族との間に起こったマルコマンニ戦争の経緯が描かれているが、トラヤヌス記念柱に描かれている2世紀初頭のダキア戦争の時と比べて浮彫が雑なのは、ローマの国力が衰退しつつあったことが原因なのだろうか。戦争の結果も、属州獲得ではなく、中途半端な引き分けという名誉が無い終戦を迎えたことも、浮彫が雑な原因なのかもしれない。


観光客が多く歩いているパンテオン付近の道

このあたりからは、観光客がうじゃうじゃと行き交う地区となる。アウグストゥス神殿の列柱だけが残っているところの横を通り過ぎ、パンテオンの少し手前まで来たところで、滝のような雨が降り出す。観光客は蜂の巣をつついたように逃げ回り、周囲の店の軒下に避難している。

しばらくすると雨も上がり、パンテオンに行くと、労働組合の集会が開かれている。観光地のど真ん中で混雑する中、労働組合の参加者も加わって、とんでもない混雑状態だ。雨が降っていた時は、パンテオンの中に人が集中したのだろうが、屋根の中央部が光を取り入れる大きな穴になっているので、どんな状態だったのか気になるところだ。


パンテオン

古代ローマ時代の建物で、現役で使われている最大の建物のパンテオンは、ポッツォーリ・コンクリートで造られていて、現代のポルトラント・コンクリートよりも(当時の品質管理がよく)丈夫らしい。入り口のポルティコ上部に、「アグリッパが建てた」と碑文が書いてあるが、実際はハドリアヌス帝が大規模改築したのが現在の姿だ。ほかの建物などでは、最初の建設者の名前とともに、改築にかかわった人の名前も書く場合が多い。アグリッパがあまりにも有名すぎて、ハドリアヌスが自分の名前を記すのを遠慮したのだろうか…

内部は、教会に転換されていて、ニッチの部分に古代ローマ神が祭られているわけではない。

雨雲が通り過ぎ、空は快晴になっているが、いつ雨雲が近づいてくるかわからない。急いでホテルのあるテルミニ方向へ戻る。まっすぐ東へ歩いていくと、トレヴィの泉がある。改修工事中で、泉の後ろの彫刻部分は完全に覆い隠されてしまっている。もちろん、カンプス・マルティウス一帯に給水していたヴェルジネ水道の水も、今は止められて泉は干からびている。

■ バルベリーニ 17:00 → テルミニ 17:05 (地下鉄 A線)

夕食は、ヴィットリオ・エマニュエレ広場の南にあるカフェテラスで、9ユーロで3種類のおかずが選べるイタリア料理。


夕食

■ Hotel Acqualium 521号室