2014/11/02

11月2日 ローマ、オスティア

11月8日(日曜日)

朝起きて、外を見ると快晴。天気予報通りだ。早朝でも気温はそれほど低くなく、ホテルの部屋のエアコンが壊れていても、特に寒いとは感じなかった。

7時30分から朝食。パンと、シリアル、そして甘いケーキ類が選択肢。ケーキ屋シリアルは削除してもらって構わないので、ハムかチーズくらい供給してくれてもよいと思うが、イタリアはどこの安ホテルもこういう感じの朝食ばかりだ。スーパーで売っている1ユーロのサンドイッチ用のハムを買ってこないとだめだな…


午前中の行動経路を、古代ローマ地図に記入してみた
(この中世は、トラヤヌス浴場とティトゥス浴場の位置が間違っている)


サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂

8時過ぎ、観光に出かける。明後日から天気が急激に悪くなるため、その前に屋外の古代ローマ遺跡を回る予定だ。泊まっているホテルは、エスクイリヌスの丘のティブルティナ門の近くだから、このまま丘の上を南西にまっすぐ行けば(同じ丘の上にある)フラウィウス闘技場(現 コロッセオ)の横までたどり着けるはずだ。テルマエ・トライアニ(トラヤヌス浴場)は、ティブルティナ門のところから分岐してきたアレクサンドリナ水道から水をとっていたはずなので、少なくとも「上り坂」のはずはないだろう。

ホテルを出てまっすぐ南西へ。5世紀にローマ教皇シクストゥス3世がたてさせた教会だそうだ。その大聖堂の北西の広場(エスクイリーノ広場)の中央には、カンプス・マルティウスにあるアウグストゥス廟から移築してきた褐色のオベリスクが鎮座している。オベリスクの最上部には十字架が…。多神教だった時代の初代ローマ皇帝はあの世からどう思っているのだろうか…

大聖堂を過ぎると、カヴール通りが下ってまた上っていく。古代ローマ時代の地図を見ると、エスクイリヌスの丘に出来た小さな谷の部分のようだ。ちょうど谷底に、地下鉄B線のカヴール駅がある。そこから南向きに方向を変え、急な階段を上りきると、すぐにトラヤヌス公園に行き当たる。芝生と林の公園には、所々に赤色の煉瓦とコンクリートで造られた遺跡が顔をのぞかせている。だだっ広い公園は、古代ローマ時代はテルマエ・トライアニ(トラヤヌス浴場)の建物だった跡地だ。公園の横の4階建ての新しいアパートと同じ高さくらいの公衆浴場跡の壁は、ちょうど半円柱形のエクセドラの部分のようで、中世に人為的に破壊されなければ、現在でも完全な形で建物が残っていたはずだ。ポッツォーリ・コンクリートを用いた建築は、帝政ローマ期には品質管理がしっかりしていたので、相当頑強に出来ていたはずだ。


テルマエ・トライアニ(トラヤヌス浴場)

中世も、このポッツォーリ産の火山灰を使っていたはずだが、品質管理のやり方が失われてしまい、古代ローマ時代ほどの強度は出なかったという。近世になり、製鉄業から排出されるポルトラントを利用し品質管理がそれほどなされなくても強度が出るポルトラント・セメントが発明されるまで、人類はローマ時代を超える建造物を建てることができなかった。

公園のそこかしこには、アフリカ系の黒人が暇そうにたむろしている。古代ローマ時代にも、アフリカ属州やマウレタニア属州から来た黒人もここで働いていたというのだから、今も昔も、コスモポリタンな地であることには変わりないのだろう(笑

フラウィウス闘技場の方へ下っていくと、子供のサッカー遊びのための小さめの草原のような四角い広場がある。その一角に、レンガ造りの小さい構造物が地上に顔をのぞかせている。かつての地図では、テルマェ・ティティ(ティトス浴場)があった位置だ。このあたりの地下は、皇帝ネロが建てたドムス・アウレアと、その建物を崩してさらに上に重なる形で建てられた公衆浴場の構造物が入り乱れている。ルネッサンス時代には、ドムス・アウレアをたまたま掘り当てた芸術家は、そこがティトス浴場やトラヤヌス浴場と勘違いしていたそうだから、遺跡発掘はむつかしいのだろう。


アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿

フラウィウス闘技場横を通り過ぎ、日曜で歩行者天国になったフォリ・インペリアリ通りを歩いていくと、フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)の入場口がある。今日は毎月最初の日曜日の無料公開日なので、チケット料金は無料だった。9時30分の開場直後に、アントニヌス・ピウス・エト・ファウスティナ神殿とバジリカ・アエミリアの間から入場する。議場や法廷、商業の寄合などに使われたバジリカは、基礎部分を残すのみだが、アントニヌス・ピウス・とファウスティナ神殿は、中世に教会に転換されたため補修の手が入り続けて、現在でも完全な形で残っている。補修しすぎて、屋根のひさしの部分の形が摩改造されてしまっているが…。

円形のウェスタ神殿は柱が数本残っていて、カストルとポルックス神殿も同様に柱が数本残っている。ヴィア・サクラ(聖なる道)をロストラ(演台)の方向へ。フォルム(中央の広場)を挟んでバジリカ・アエミリアと対になる形のバジリカ・ユリアも柱がまばらに残るだけの状態だ。ロストラは、かつては敵の船から奪い取ったへさきの部分などで飾り付けていたそうだが、今は単なる四角い台の部分だけだ。その左側には、ローマのへそと呼ばれる円錐形モニュメントの基礎部分が今でも残っている。ロストラの右側には、ローマ街道ゼロ・マイル基準点(黄金のマイルストーン)があったはずだが、いまは、そこから10m位離れたサートゥルヌス神殿横に移されてしまっている。


黄金のマイルストーン(基礎部のみ)とサートゥルヌス神殿の列柱

フォルム・ロマヌム付近に残る凱旋門の一つ、セプティムス・セヴェルスの凱旋門がある。カピトリヌスの丘(カンピドーリオ)の方を見ると、ローマ市役所の建物に取り込まれてしまったタブラリウム(帝国公文書館)が見える。ローマ時代の役所の建物が、今でも役に立っているというのはすごいことだ。バシリカやフォルムが、今では同等の機能の政府機関が無いのは、何とも残念だ。


バシリカ・ユリアとサートゥルヌス神殿の石柱

入場口の方にいったん引き返し、さらに南東へ行くと、教会施設に取り込まれたため保存状態の良いロムルス神殿や、現存するローマ遺跡の中では最大級のマクセンティウスのバシリカがある。古代ギリシア建築では用いられなかった、円天井という力学的に安定した建築手法は、より広い空間を作り出すことに大いに貢献したそうだ。マクセンティウスのバシリカにも円天井があり、さらに力を安定的に分散されるため、円天井の表面を八角形の模様で覆っている。古代ローマ時代には荷重(応力)をベクトルで表現する方法は発明されていなかったはずだが、横向きの力を下向きに変換できるアーチ構造が構造的に安定していることを、よく知っていたのだろう。


マクセンティウスとコンスタンティヌス1世のバシリカ

少し小ぶりのティトゥスの凱旋門を見て、パラティヌスの丘(パラティーノ)に向かう。競技場ではなく、皇帝の庭として造られたスタディオンの横を抜けて、皇帝セプティムス・セヴェルスが増築した宮殿部分に入る。巨大な浴場があり、クラウディア水道から分岐してきた水道橋の末端の部分も見えている。帝政初期の皇帝たちまでは、公衆浴場に入りに行っていたそうだが、セゥェルス帝の頃には、すでに一般市民の浴場に行くということは無くなっていたのだろうか。20年前に来た時には、この浴場部分の地下の通路を歩くことができたのだが、今は閉鎖されて屋上部分の見晴らし台から眺めるだけだ。

次に、ドムス・アウグスターナに向かう。パラティヌスの宮殿の中では、最も保存状態がよく、地下の皇帝の居室などを見晴台から眺めることができる。宮殿の中庭には、水を流すことのできる観賞用の池のような遺構が残っていて、いまでも雨水がたまっているのか、そこだけ花畑のようになっている。皇帝や秘書官、官僚たちに心の癒しを与える見た目だけの噴水施設ではなく、水を潤沢に引き込むことで冷房効果も狙っていたという説もあるそうだ。


パラティヌスのドムス・アウグスタナの中庭部分

伝説上のローマ初代の王ロムルスが住んだといわれている場所があるそうだが、どの瓦礫の部分がそうなのか見つけることができなかった。再び入場口のところまで戻り、フォルム・インペリアリ(皇帝たちのフォルム)へ。アウグストゥスやトラヤヌスなど、フォルムを造った皇帝たちのブロンズ像の複製が道路沿いに並んでいるが、なぜかウェスパシアヌス帝のブロンズ像の複製だけが造られていない。当時のローマ市民に重税を課したから、現在まで恨み千倍で仕返しをしているのだろうか…。


帝政ローマ 初代皇帝アウグストクス像


トラヤヌス帝のフォルムのエクセドラ外周に造られた市場


トラヤヌスの記念柱 (ダキア戦争の経過が描かれている)

フォルム・ロマヌムの司法・行政機能を移すために造られた新市街のため、建物が整然と並んでいる。整然と並んでいたため、建築資材として奪い取りやすかったのか、ほぼ何も残っていない状態だ。建物自体がコンクリート建築で、石材が取り出せるようなものではないトラヤヌス市場と呼ばれる半円形のビルだけは、中世に見向きもされなかったのだろう。今でも、ほぼ完全な形で残っている。

昼食は、パニーニとピザを売る店でポークのハンバーグを挟んだパニーニ(4ユーロ)とコーラ(1.5ユーロ)を食べる。その後、フラウィウス闘技場(コロッセオ)のところま戻り、たくさんの入場客の行列の横を通り過ぎて、コンスタンティヌスの凱旋門横を通り、キルクス・マクシムス(チルコ・マッシモ)へ。一段低くなっているキルクス・マクシムスからは、すぐ北側にあるパラティヌスのドミティアヌス宮殿が巨大ビルの壁のように見えている。

キルクス・マクシムスから地下鉄に1駅乗り、リド鉄道に乗り換えてオスティア・アンティカまで行く。

■ チルコ・マッシモ 13:53 → ピラミデ 13:55 (地下鉄B線)
■ ポルタ・サン・パオロ 14:00 → オスティア・アンティカ 14:30 (オスティア鉄道)

地下鉄とオスティア鉄道の駅の間には改札は無く、地下鉄と一体の料金体系のようだ。つまり、ローマ市内の切符でそのまま乗ってよしということなのだろう。


落書きで埋め尽くされたリド鉄道の電車

リド鉄道は自転車持ち込み可能のようで、折りたたんだり、輪行バッグに入れるのではなく、自転車そのままを車内に持ち込んでいる。ただでさえ混雑している車内が、身動き取れない状態だ (笑

オスティア・アンティカ駅で下車し、駅前の歩道橋で国道を越えて少し歩くと、遺跡の入り口がある。ここも、今日は無料のようだ。ポンペイに比肩する規模の古代ローマ都市遺跡だそうだが、こちらは草が生い茂り、発掘されたままの状態を見せているという雰囲気を出している。インスラと呼ばれていた高層賃貸アパート、といっても4階くらいだった建物の1階部分がずらっと通り沿いに並んでいる。もちろん、ドムスと呼ばれる一戸建ての邸宅もあるのだが、ポンペイと違うのは、賃貸住宅のインスラが並んでいることだろうか。もちろん、港湾都市として小麦や塩などの交易品を保管したと思われる倉庫跡があるのも、単なる中継都市だったポンペイとの違いだ。


ローマ劇場跡


インスラ地上階の飲食店跡(バー カウンター)

ギリシア文明の都市遺跡にはパルテノンの丘があったりするが、ローマのコロニア遺跡にはフォルムやカピトリヌスの神殿がある場合が多い。オスティア・アンティカも例にもれず、これらの施設や、もちろん中心を東西南北に貫く大通り(デクマヌス)を中心とする碁盤の目の都市計画も見ることができる。


フォルム(公共広場)とカピトリヌス


エバガティアーナの倉庫と呼ばれる保税倉庫会社跡

フォルムのあたりまで見て、南北の道 カルド・マクシムスとの交差点まで来た時に「閉場時間が迫ってきたので、これ以上向うには行けない」とのこと。街の中心部のおもな見どころは見たのだが、全部見れなかったのは心残りだ。駅まで戻ると、ちょうどリド・ディ・オスティア方向からの列車が到着するのが見えた。かろうじて、滑り込みで乗車。日曜日はかなり減便のダイヤ編成で、30分に1本くらいしか走らないので、ここで乗り過ごすと長い時間待たなければならなかったところだ。

ポルタ・サン・パオロ駅で地下鉄に乗り換え、テルミニ駅まで戻る。

■ オスティア・アンティカ 16:22 → ポルタ・サン・パオロ 16:45 (リド鉄道)
■ ピラミデ 16:50 → テルミニ 16:58 (地下鉄 B線)

駅の1番線の横にある出口から出たちょうど通りの向かいにある、インド人がやっている鶏肉とケバブのファストフード店に入り、ビリヤニ(インド料理の焼き飯?)を食べる。ペプシ缶付きで5ユーロ。


ビリヤニ

■ Hotel Acqualium 521号室